»Kein Mensch muß müssen«

 光文社古典新訳文庫版の『賢者ナータン』を読了した。

 これまでにも『賢者ナータン』の邦訳は複数出ており、私の知る限りではこの古典新訳文庫版の刊行が6度目の邦訳となる。文庫としては長らく篠田英雄訳の岩波文庫版があるのみだったが、2016年に市川明による日独対訳の松本工房版、2020年に丘沢静也訳の光文社古典新訳文庫版が相次いで刊行されている。
 ドイツ語原文を参照されたい方には対訳版がおすすめなのだが如何せん分厚く、携行にはやや不向きかもしれない*1。読みやすさや入手しやすさの観点では光文社古典新訳版をおすすめしたい。

 『賢者ナータン』(Nathan der Weiseは、ドイツ啓蒙主義を代表する思想家・劇作家レッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729-1781)が論敵ゲッツェ*2との激しい神学論争を繰り広げるなかで成立した作品であり、その成立事情や内容についても興味深い点が多いのだが、本記事では作品内に出てくる次の台詞を取り上げてみたいと思う。

»Kein Mensch muß müssen.«

 これは『ナータン』第一幕第三場において、イスラム托鉢僧の台詞を受けてユダヤ人賢者ナータンが言った台詞なのだが、ここでは人物や場面の説明は脇に置いて、このドイツ語表現の面白さに焦点を当ててみたい。

 まず上記の文を単語レベルで見ていくと、

 "kein"  ⇒否定冠詞。英語の "no"に相当。

 "Mensch" ⇒「人間」

 "muß" ⇒ 英語の"must"に相当する助動詞"müssen"の3人称単数現在形*3

 "müssen" ⇒ 上記と同じく"must"に相当する助動詞の不定

となっている。通常であれば助動詞"muß"の後に普通の動詞が不定形で置かれるのだが、さらに同じ助動詞"müssen"を重ねて置いているところがこの台詞の特徴であり興味深い点だ。この文を訳すのは難しいが、幸いなことに『ナータン』はこれまでにも様々な日本語訳が出ているので、先人たちがどのように訳してきたのかを紹介してみたい。

何んな人間でも强制されてものをしてはならぬ

大庭米治郞訳『賢者ナータン』,岩波書店1920年,27頁

いやしくも人間たるものが、はたから迫られたからといって、せねばならんということがあるものか

篠田英雄訳『賢人ナータン』,岩波書店,1958年,26頁

どんな人間もせねばならんということがあってはならん!

浅井真男訳「賢人ナータン」,『世界文学大系14 古典劇集』所収,筑摩書房,1961年,332頁

人間は誰しも、せにゃならんからするというようなことがあってはいかん

浜川祥枝訳「賢者ナータン」,『レッシング名作集』所収,白水社,1972年,276頁

誰しも無理やりというのはいかん

市川明訳『賢者ナータン 五幕の劇詩』,松本工房,2016年,75頁

人間には、そうするしかないことなんてないはずなのに(…)

丘沢静也訳『賢者ナータン』,光文社,2020年,32頁

訳文によって微妙にニュアンスは変わってくるのだが、他にも参考となる翻訳が存在する。レッシングとほぼ同時代のドイツの詩人シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller, 1759-1805)は、自身の論考「崇高について」の冒頭で上述のナータンの台詞を引用しており、実はこのシラーの論考も既に3度日本語に訳されている*4ので、その訳文も追加でここに引用してみよう。

人間は決して强ひられてものをしてはならぬ

杉山誠訳「崇高について」,『シラー選集 第2』所収,富山房,1941年,505頁

人間は誰しも、強制をうけてはならない

小宮曠三訳「崇高について」,『世界文学大系 第18』所収,筑摩書房,1959年,85頁

人間はせねばならないと、強制されてはならない

浜田正秀訳「崇高について」,『美的教育』所収,玉川大学出版,1982年,248頁

他にも二次文献などでの翻訳例は枚挙に暇はないだろうが*5、いったん以上のものを整理すると、上記訳文は二種類に大別することができる。大庭訳、浅井訳、浜川訳、市川訳、杉山訳、小宮訳、浜田訳においては"müssen"の否定が「してはならない」という禁止の意味で訳されているのに対し、篠田訳、丘沢訳では義務や強制がないという必要性の否定の意味合いで訳されている。しかし、「~してはならない」という禁止と「~する必要はない」という必要性の否定ではだいぶ意味合いが変わってくる。他にも訳文の間で解釈の違いというのはあるのだが*6、ここでは"müssen"の否定の解釈に焦点を絞りたい。

 冒頭でドイツ語の"müssen"が英語の"must"に相当する語として書いたのだが、実は"müssen"と"must"では注意すべき差異がある。とあるネイティブのドイツ語講師がブログでわかりやすく解説していたので引用してみよう*7

"müssen"を否定しようとするとき、ドイツ語と英語には共通の誤解があります。"must"と"have to"は同義ですが、その否定においては同義ではありません。というのも、英語の "must not"は"not to be allowed to"(~してはならない)という意味であって、"do not have to"(~する必要はない)という意味ではないからです。したがって、"must not"は禁止であり、ドイツ語で「~してはならない」を表現したい場合は、後述のように動詞 "dürfen"を使う必要があります

例: Ich muss heute nicht in die Schule gehen. - 私は今日学校に行く必要はない(しかし、行きたいのであれば行ってもよい)。

www.studygermanonline.com

 

このように英語の場合には"must"の否定は「してはならない」という禁止の意味となるが、ドイツ語の場合、"müssen"の否定は「義務がない」「必要がない」という意味となる。この説明に従うならば、"müssen"の否定は「~する必要がない」という必要性の否定として解釈すべきであり、禁止の意味では訳せないことになる。では、禁止の路線で訳している上述の日本語訳は誤りなのだろうか。実は必ずしもそうとは限らない。ここで参考になるのは、ドイツ語の助動詞の用法と歴史的変遷に焦点を当てた言語学的な研究書『ドイツ語の様相助動詞』である。 "müssen"の用法については本論において詳細な記述があるが、ここでは序論の記述を引用したい。

 様相助動詞の意味の解釈において最も重要な現象は否定である。この否定には、助動詞が否定される上位否定(直接否定、外部否定、モダリティ否定、法性否定とも)と従属する不定詞(句)が否定される下位否定(間接否定、内部否定、命題否定とも)の2種類があるが、どちらの否定が可能かはその時代の慣用による。どちらの否定の場合でも、日本語やイタリア語、フランス語(Ehrich 2001:159)*8とは違って、否定詞の位置そのものは同一であることが多い。

(中略)

 müssenは4通りの否定、即ち客観的用法の上位否定「…する必要がない」(例えばSie müssen sich keine Sorgen machen「ご心配なさるには及びません」の否定詞keineは形式的にはSorgenを否定するが、意味上は様相助動詞müssenを否定)、客観的用法の下位否定「…しない必要がある=してはならない」主観的用法の上位否定「…するに違いなくはない=するとは限らない」主観的用法の下位否定「…しないに違いない=するはずがない」が可能である。ここでも上位否定の場合は様相助動詞に、下位否定の場合は従属不定詞(句の一部)に強制が置かれる(Dieling 1982: 329)*9

 

  Paul muß nicht | zu Hause gewesen sein. (上位否定)

  パウルは家にいたに違いなくはない=いたとは限らない。

  Paul muß | nicht zu Hause gewesen sein. (下位否定)

  パウルは家にいなかったに違いない=いたはずがない。

髙橋輝和著『ドイツ語の様相助動詞』,ひつじ書房,2015年,2-4頁

※強調(太字)は引用者

 

引用文中の例文では、主観的用法(≒推量)で説明されているのだが、客観的用法においても同様である。したがって、ナータンの台詞もまた上位否定と下位否定の2通りの解釈がありうる。

・上位否定の場合 ⇒ 「"müssen"する必要はない

・下位否定の場合 ⇒ 「"müssen"しない必要がある

 上で紹介した訳文に必要性の否定と禁止の解釈の2通りが存在するのはこのことによるだろう。『ナータン』を読む限りでは正直どちらで解釈しても問題ないと思われるが、シラーの崇高論を読む限りは、シラー自身は必要性の否定の意味で解釈したのではないかと私は考えている。というのも、(シラー崇高論に少し立ち入ってしまうことになるが)シラーは自身の論考の中で自然の強制力人間理性の自由とを明確に対比させると同時に後者の優位を主張しており、つまり、"müssen"という強制からの自由をナータンの台詞の内に見出したと思われるからである。仮に下位否定で解釈した場合、ある強制を禁ずることはできても、「"müssen"しないようにしなければならない」というより高階の強制に従うこととなる。ある強制から逃れるために、より高階の強制に従うことははたして自由といえるだろうか(もっとも、それこそが自由の意味なのだと主張されればそれまでのことではあるが)。私は、"müssen"という強制力に対しては、強制の禁止という別の強制を持ち出して対抗するのではなく、必要性の否定(~する必要はない)によって(その強制に自発的に従うか否か、という選択の余地も含めた上で)自由を確保するほうがよいのではないかと考えている。

*1:既に絶版のようでAmazonでは価格が約2万円にまで高騰していた。

*2:Johann Melchior Goeze, 1717-1786。ルター派正統主義の代弁者にして「ハンブルクの異端審問官」の異名を持つ。日本国内における表記について安酸の指摘によれば、かの文豪ゲーテGoethe)につられてGoezeについても「ゲーツェ」という表記を当てた例が散見されるが、正確な発音は['gœtsə]とのこと(安酸敏真『レッシングとドイツ啓蒙―レッシング宗教哲学の研究』,創文社,1998年,59頁の註17を参照。こちらもすでに絶版だが、創文社のオンデマンド版で入手可能)。

*3:※新正書法に従った表記法では"muss"。

*4:シラーの崇高論は1793年のVom Erhabenenと1801年のÜber das Erhabeneの二篇が存在するが、邦訳はすべて後者の崇高論である。

*5:どんな人間も「しなければならないからする」必要はない」(『アンコールまいにちドイツ語 2011年度』(Lektion 76),NHK出版,2011年,207頁)、「人間はせねばならないことはなにもない」(井藤元「『崇高論』によるシラー美的教育論再考:シラー美的教育論再構築への布石」,『京都大学大学院教育学研究科紀要』(55)京都大学大学院教育学研究科,2009年,175頁)」、「人間は強いられて事をしてはならない」(松山雄三「シラーの崇高論をめぐって:美しい魂と崇高な魂を求めて」,『プロテウス』(10),仙台ゲーテ自然学研究会,2008年,28頁)等。

*6:たとえば、篠田訳の「はたから迫られたからといって」という箇所では、強制があくまでも主体の外部から働きかけてくるものとして解釈されているのに対して、その他の訳ではそのような限定はない。私自身としては主体の内部に由来する衝動的にせざるをえないような強制もあるのではないかと考えている。

*7:原文は英語。訳文および強調(太字)は引用者によるもの。

*8:Ehrich, Veronika: Was nicht müssen und nicht können (nicht) bedeuten können: Zum Skopus der Negation bei den Modalverben des Deutschen. In: Müller/Reis(Hrsg.) 2001, 149-176.

*9:Dieling, Klaus: Das Hilfsverb "werden" als Zeit- und Hypothesenfunktor. In: Zeitschrift für Germanistik 3, 1982, 325-331.